2003年04月14日

●東峰夫「ママはノースカロライナにいる」

いま売りの「群像」5月号に、東峰夫氏が新作を発表しているのを偶然みつけた。昨年同誌上で発表した「ガードマン哀歌」以来の作品だろうか。40ページほどの中篇小説だったので一気に読み切ってしまったが、なんとも気だるく寂寞とした読後感が残る。

淡々と進められるストーリー。登場人物にも特異なキャラクターはいない。だが、そのドラマ性のない日常の気だるさこそ、この小説の存在を支えるリアリティだ。いや、実際はドラマの要素は随所にちりばめられているのだ。にもかかわらず、事件らしい事件も起きず、最後まで結末といえる場所にたどり着くことができない気だるさ。絶望も感動もなく中途半端なままの日常。

おそらく今回の作品について語るべき中心は、東峰夫が久々に描いた「オキナワ」なのかもしれない。それはいくらでも意味を見つけ語ることができるだろう。だが、全編をおおう気だるさが、その過剰な必然性をうち消している。東京、沖縄、ノースカロライナ、そのどこにも主人公は根を下ろさず、たどり着くことすらできず、夢とともに浮遊するのみ。その不確かな場所のひとつでしかない「オキナワ」は、かろうじてネガフィルムのように反転して一瞬だけの意味を現しているにすぎない。そして、何度も主人公の夢のなかで出てくる「オキナワ」の異様な光景も、その意味の一過性を強めている。それを無理にポジティブに語ろうとすることは、ひどく無粋なことのように思えてしまう。

「オキナワの少年」で芥川賞をとった小説家の名前を久しぶりに見たのは、朝日新聞の企画記事「それから」だった。いまからもう十年前のことだ。その記事で、彼が東京でガードマンをしているということを知った。悠々自適に暮らしているはずと勝手に想像していたので、かなりショックだったのを覚えている。その寡作の要因のひとつに、オキナワを描くことを期待される苦悩があったことをのちに知った。今回の作品はその苦悩の末のひとつの答え(妥協点?)かもしれない。しかし、その「オキナワ」はどこまでもよそよそしく、ぼんやりとしている。意味の中心であることをあくまで拒絶するように。

ちなみに今月号の群像を買った本来の目的は、劇団本谷の主宰者本谷さんの小説。毎回、劇団の公演を撮らせてもらっているのだが、小説もまた違った味があって面白い。ほかに今月号は、雨宮処凛、大城立裕、増田みず子のコラムや批評が興味深かった。

Posted by nonkar at 2003年04月14日 11:38
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